方夕・本文サンプル・林々 「同じ花を見ていた」 |
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「……なんでもない」 方淵は夕鈴から顔を背けた。 「なんでもないという感じじゃないですよ」 「貴女には関係ない」 「関係ないとかじゃなくて」 なにも恐れることなく夕鈴は方淵に手を伸ばした。 「……っ!」 伸びてきた手を、咄嗟に方淵は払い除け。 「きゃ」 それは強すぎたのか、夕鈴は吹き飛ばされるように蹌踉めいた。 夕鈴が転びそうになるのは、ひどくゆっくりと方淵には見えて、払い除けた手に手を伸ばす。 その手を掴み引き寄せようとして、勢い余って方淵は逆に向かって蹌踉めいた。夕鈴の手を掴んだままで、後ろにあった長椅子の上にもつれて倒れ込む。 「……っ」 「いった……」 倒れ込んだ時の形は、ぎりぎり方淵が下敷きになった。長椅子はやわらかくはないので、床に転げたのとぶつけた時の痛みとしては変わりない。脚と腰と背中を打ったような気がして方淵は息を詰まらせた。 それでも夕鈴は打撲から守れたかと思ったが、しかし妃の痛そうな呻き声も聞こえたので、やっぱりどこかぶつけてしまったのだと思った。 「大丈夫か……?」 「大丈夫……」 詰まった息を緩めて目を開けた時、方淵の中で時が止まった。 ほんの一拍遅れて、夕鈴も目を開けた。 お互いの顔はごく間近にあって、鼻も唇もあとわずかで触れ合う距離だった。今までに経験のない距離で、視線が絡み合う。 すぐに離せばよかったと、このすぐ後に方淵は深く後悔した。妃の身体を突き飛ばしても、離せばよかったと。 そうすれば、あのようなことにはならなかった。 「方淵殿?」 だが腕の中にすっぽりと収まった小さくて柔らかい身体を、方淵は離すことができなかった。その柔らかさの誘惑は、自覚したばかりの想いには強烈すぎたのかもしれない。 なにもできるわけはなかった。動けぬままに、ただ方淵は夕鈴を見つめていただけだ。 方淵に敬愛する王を裏切れるはずもない。生涯その想いを認識しないで済んだのならば、不幸を感じることもなかっただろうが……認識してしまったから辛くなっただけのことだ。方淵にとっては耐えるべき苦難が増えただけのこと。 苦難は、多い。それが一つ増えただけだ。 知られずに済むように振る舞い、墓場まで持っていくものが増えただけだ。 様々な理不尽よりも、自分に由来するものな分、きっとましな苦しみだと、その時の方淵には思えた。 時間が許したなら、きっと何事もない顔で夕鈴を起こし、痛みでぼーっとしていたとでも言い訳して、やり過ごしてしまえただろう。 「方淵殿……?」 不思議そうに伸びてきた手が、方淵の頬に触れた。 今度は払い除けなかった。 そしてそれが仇になった。 「――なにをしている」 それが主の咎める声であることを、方淵が聞き間違うはずもなかった。 はっと視線を向ければ、戸口に黎翔が立っている。その怒りは、離れていても伝わった。 「陛下」 夕鈴が身を起こす。それを止めるようなことは、もちろんありえなかった。 「申し訳ありません、私が転んでしまって」 夕鈴が方淵の上から降りる。 方淵も身を起こした。だがもう、手遅れであることも感じ取っていた。 「転んだ?」 玲瓏なまでに澄んだ黎翔の声音が、室内に響く。その声は美しいとさえ思えるものだったが、絶対的な威圧感と怒りを含んでいた。 「は、はい……転んで……方淵殿を巻き込んで転んでしまって」 黎翔は戸を閉め、静かに歩み寄ってくる。 夕鈴の声が不安に揺れていた。黎翔の怒りを察したのだろう。 方淵は、鈍い、と思った。 他に誰もいない室内で男と抱き合っていたなんて、密通の現場を押さえられたも同然だ。妃の立場であれば、死罪で当然。黎翔に見られた時点で、それは覚悟するべきことだった。 だからもっと必死に弁明すべきなのに、そうしないのは、夕鈴にはそのつもりがなかったから……いまだそのことに気がついていないのかもしれない。 方淵は、ひどくこのものを知らぬ妃が、不憫に思えた。 「桜花」頁へ 目次へ |